すがる杖 介護の杖 魔法の杖

すがる杖 介護の杖 魔法の杖


カーサには、ここを訪れて病が治ったことで不要になり、うち捨てられた杖や下肢装具をまとめて保管している部屋があります。「保管」というよりも無造作に積み上げられている、といったほうが正確かも知れません。

カーサの雰囲気というのは、ブラジルの気候のせいもあって穏やかでとても明るい感じなのですが、足を踏み入れると、その部屋は明かりもなく、強い陽射しに馴染んだ目には、そこにあるものがなんなのか一瞬認識できないのですが、目が慣れるとその異様な光景に息をのみます。

様々な形状のグリップを持つ大量の杖、それらに混じって、やはり多様な下肢装具(かしそうぐ)――大ぶりなものが多いようです。左の方に置いてある装具は、すれて潰瘍(かいよう)ができたのでしょうか、当たる部分に殺菌用のヨードが大量にこびりついています。右の方を見ると足の形を下手くそにまねた黄色い装具があります。この中に入れる足はどんな形になってしまっていたのでしょうか。また視線を中央に戻すと、装具の内側に聖母マリアの写真を貼り付けたものがあります。これを付けていた人は、この装具を外して治療をするたびに、どれほどこの写真に祈ったのでしょうか。

耳を澄ませば、そのいずれかから呪詛の声が聞こえてくるような錯覚さえおぼえます。あまり長居をしたくない、そう思わせる場所です。

下にあるのがその写真です。
 
 
ブログの写真サイズの制限でよくわからないかもしれませんので本サイト(ジョン・オブ・ゴッドに会うために)に大きな画像を貼っておきました。もしよろしければ下記リンクからおいでください。
『杖ならびに下肢装具類』

ところで、私は以前から、セッション時のジョン・オブ・ゴッド(エンティティー)の仕草でとても気になっている部分がありました。YouTubeなどの動画や『Healing』などの映画でも見かけましたし、セッション時に並んで実際に目の前で見たこともあります。

それは「患者の杖を投げ捨てる」動作です。

いつのまにか家に入り込んでいた毒ヘビを窓からぶん投げるように、投げ捨てます。これまで、その杖の果たしてきた貢献に対する感謝もへったくれもありません。親のかたき、といわんばかりの扱いです。

なぜジョン・オブ・ゴッド(エンティティー)はこれほどまでに杖を邪険にあつかうのでしょうか。

もちろん、「あなたはもう大丈夫なのだ」ということを患者にはっきり解らせる、という意味もあるでしょう。病気が治っている・治りかけている、というエンティティーの判断のもと、杖に対する依存心を断ち切る、という意味もあるでしょう。

ただ、それ以上に私が焦点を当てたいと思うことは、杖、あるいは医療補助具と呼ばれるものが持っている「物語性」についてです。そこにはどんな物語がしみこんでいるのでしょうか。それは疎遠だった息子が送ってよこした高級黒檀の杖でしょうか。ここが当たる、ここが痛い、という言葉に、親身になって耳をかたむけてくれた、そしてなんどもなんども調整してくれた、装具士さんの笑顔でしょうか。

そこには病気になったという始まりから、ここアバジャーニアにたどりつくまでの物語があります。それは患者が自分の人生を歩んできた、ということと同義であり、たくさんの出来事とそこに関わる人々を巻き込んだ、悲喜こもごもが記憶として層になっています。ぶあつい層です。信念の層です。

『人の心の土壌は固い。人はそこに何でも植えられるものを植える。そしてそれを大事に育てる』

スティーブン・キングの『ペットセマタリー』という本に出てくるフレーズですが、私がたくさんの方にお会いして思うことのひとつに、過去にどれほどすばらしい瞑想法やスピリチュアルなプラクティスを学び、実践していても、「いつのまにか何もしなくなっている自分に気づいた」ということを言われる方が大変多い、ということがあります。

自分自身に対する言い訳はどんな感じでしょうか。仕事(家事)が忙しくなってできなくなった気がする。家の中でちょっとしたイベント・事件があってそれをきっかけに・・・・。特に思い当たらない、なぜやめてしまったのだろう・・・・。何がきっかけであれ、やめた本当の原因は自分自身の内面にあり、それは間違いなく当人がそのプラクティスを始める前までに長年かけてつちかってきた信念体系です。

「現代医療を信じる」という気持ちもまた信念です。以前、ある難病を患っているクライアント様が次のように言うのを聞いたことがあります。「『すぐに治る』なんていう現実は楽天的すぎます。いまの医療技術の限界や手術のリスクを統計を使って丁寧に説明してくれる医師の方が信頼できますし、人間味があります」

しかしながら、このブログでもこれまで紹介しているように、ジョン・オブ・ゴッド(エンティティー)の起こす奇跡的な治癒もまた現実であり、前述の意見は、どちらがよりリアルに聞こえるか、ということを当人がこれまで蓄積した知識・経験から比較しているに過ぎない、ということです。つまり「リスクとともにある」、という言い方のほうが、よりリアルに聞こえる、というだけのことなのです。

そして大事なことは、病を含めてあなたの人生に起こったことはあなたをこの場所に導くために起こったことであり、あなたはたくさんの学びの末にこの場所にたどり着いた唯一無二の存在であるということです。統計を手放してください。「がんの5年生存率」といった否定的予言はあなたにとって無意味です。

ジョン・オブ・ゴッドの話に戻りましょう。「杖」とはつまり、長年、手間ひまかけて作ってきたアルバムのようなものであり、その人の信念大系の象徴です。奇跡に対してはオープンになれ、と言われるとオープンになることが自分が生きてきたことを否定してしまうような気持ちになる人は多い、ということです。「これを手放してしまったら、次に何を指針に生きていけばよいのだろう」、そう思う人がいます。ジョン・オブ・ゴッドは「杖」という物語を捨てています。それは慣れ親しんだ物語を手放すことを意味します。それには勢いが必要です。「なんだこんなもの!!!」という、荒々しいまでの勢いが必要だということです。

もちろん、ジョン・オブ・ゴッド(エンティティー)がわれわれにさしのべる手はすべてが奇跡にまつわるものではありません。エンティティーはわれわれが自分の全体性を取り戻すために何を手放し、誰を赦さなければならないかを明確に示すことで、むしろ、多くの人はこの地を去ってから日常の中で自分の問題に取り組むプロセスで治癒を経験することでしょう。エンティティーの癒やしとは「魔法の杖」ではないのです。


そして奇跡と呼ばれるものに出会った当人は、その時点からさらに広がる世界観・人生観のなかに自分が味わった体験とそこで感じた感情がやがておさまる、ということをぜひ憶えておいて欲しいと思います。その意味は、時が経つにつれてそのことの記憶が薄れていく、ということでも、「理解不可能なもの」というタイトルの記憶ストックファイルに突っ込んでしまう、ということでもありません。起きたことを折りにつけ、自分の人生の中で照らしつつ、その意味・本質を理解していく、ということです。


ここで、このブログで以前ご紹介した竹田さんがiPhoneで撮影してきた動画があるので一緒に見てみましょう。

この方はジョン・オブ・ゴッド(エンティティー)とのセッションを終えて、いまカーサを出てきたところです。このおじいさんは足が不自由でその癒やしをエンティティーにお願いしました。


長年連れ添った杖を片手に、一足一足確かめるように、しかししっかりした足取りで歩いています。アバジャーニアのデコボコのアスファルトを踏みしめながら、心の中で叫ぶ、オレは治った、オレは治った、という声が聞こえてきそうです。晩節を迎えての浮かぶ瀬に、そのよろこびとともに心の中にあふれ、むせかえる記憶とはどのようなものなのでしょうか。すべてはこのおじいさんにしかわかりません。


そしてこのおじいさんは持っていた杖をどうしたのでしょうか。

国に戻ってだれかにあげたのでしょうか。
捨ててしまったのでしょうか。
記念にとってあるのでしょうか。
はたまた、杖と共に生きる暮らしにまた戻っているのでしょうか


※参考までにジョン・オブ・ゴッドが杖を投げ捨てる場面の映った動画もご覧ください。手術は目の手術です。「肉体の手術の意味」についてはまた別の機会にまとめてみたいと思います。


「すがる杖 介護の杖 魔法の杖」の回 完


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