ジョアンのいない9月 その2(全5回)
なにが問題なのか?
もちろん、私がカーサに来てジョアンさんがいなかった、ということは初めてのことでしたので大変驚きました。そして正直に言えば、わずかに不安になったように思います。
しかし、それは私が「カーサ/ジョアンさん/エンティティー」という組み合わせが、空気のようにそこあるのが当たり前のこととして捉えていたからであって、よく考えてみれば私にとって何より大事なことはエンティティーがジョアンさんのいないこの期間にカーサで治療を行う意思があるのか、カレントルームを運営する意思があるのかどうか、ということだけだったことにすぐに気づきました。
そしてカーサの運営については「オペレーションラインがない」というだけです。つまり、エンティティーさえいれば、カーサにくるその当人にとって必要な事は全て行われるということには何の変わりもなかったのです。
ところでこの「オペレーションライン」ですが、まったくご存じない方のために説明すれば、ここでいう「オペレーション」とは霊的な手術を意味します。基本的に物理的な接触はありません。また、希望しない限り、肉体にメスを入れることはありません。エンティティーの指示でオペレーションと言われた場合、大抵その日の午後に予定され、受ける人々はまとまって治療室に通され、イスに座って少しの間目をつむって祈ります。その間にエンティティーは対象の人々に手術を行います。
カーサに来る人々はしばしばこの手術を受けることが大事なことで、それでなければ来る意味がない、と思っている人がおりますが、私にとってオペレーションというのはそれほど重要とは思われません。セカンドタイムラインに並んで治療室に入っても、エンティティーがその人に手術相当の治療が必要と判断すれば治療室でそれを行うからです。
私自身はカーサの醍醐味はカレントルームであると思っており、カレントルームに座ることでエンティティーと共にワークし、エンティティーによる手術相当の治療はもちろん、その人にとって気づき、今後必要な課題、メッセージ等も伝えられることになるからです。
ではジョアンさんがいる場合といない場合の違いとはなにかといえば、エンティティーからその人へのメッセージがなにかあった場合、あるいはなにかを教えてもらったり、判断をしてもらうために質問を持ってきた人はその答えを耳で聞くことができないということか、と思います。
これをなにか致命的な問題のように捉える人もいるかも知れませんが、なんらかのメッセージを耳で・言葉で聞かなければならないと思う強い欲求と関わっているのはやはり個人のエゴでしょう。自分のことが知りたい、自分だけに向けられるメッセージが欲しい、自分の気づかないことを教えて欲しい――もちろん、私はそういう気持ちを理解しないわけではありません。しかし、エンティティーに対して「自分のいま抱えている問題を良い方向に向かわせるためにどのようにしたらよいのかその方法を教えて欲しい」と願えば、言葉というような直接的なメッセージではなくとも、その方向に向かうようにエンティティーがかならず采配しますし、何が大事なのか、そこで自分がなにをしなければならないか、というような気づきも自ずと出てくることになります。これは間違いのないことです。
併せて、エンティティーは当人が自分で気づかなければならない問題があるとき、言葉での答えは「どうとでも捉えられるような一つの単語」というような極めて曖昧なものになることが多いです。たとえば、その人の培ってきた考え方や信念、それに基づく生活スタイルが原因で病気になった人が「自分の病気を治すためになにをしたら良いですか」、というような質問をしたとき、「ハーブを飲むこと Just Medicine」と答えたのを聞いたことがあります。もちろん、その当人はなにがなんだかわからずに、それはどういう意味なのか、と聞き返しましたが、それには答えませんでした。それとは対照的に別の人が同じような質問した際には食生活のことを含めて、その人がどうしたらよいのか詳しく説明するのも聞いたことがあります。その違いはなんなのかについて詳説するのは、この記事のテーマではないので、またの機会に譲りたいと思います。
そしてもっと大事なことは、カレントルームやセカンドタイムラインというセッションに参加すれば、エンティティーからその当人へはエネルギー的な伝達が必ずなされるので(エネルギーと情報は交換可能なものなので)、わずか一言二言のメッセージよりも、実際、その当人はすでに必要な情報を何万倍、何十万倍も受け取っている、ということです。
その3へつづく