朝顔の咲きそめる夏――山下さんのこと。(2)
5、6年後のこと
再手術から5、6年が経ちました。なぜかこの時期になって目の角膜に小さな穴がいくつか開き始め、右目の視野が欠損し始めました。そのうちの1つの穴については、もし、あと1ミリずれていれば、失明していたかも知れない、と眼科医からは言われました。まだ20代後半だというのに飛蚊症(ひぶんしょう)のような症状も出てくるようになりました。
ある晩、山下さんはお腹の苦しさのため、布団の中でうつぶせでへそを指で押さえながら、「きつさ」を緩めようとブリッジのような体勢になりました。するとブツンという何かが切れたような感覚がお腹の中で起こりました。
山下さんはそのとき、お腹の中で腹膜を留めていた縫合糸が切れたのではないかと想像しました。しかし、これまでのいきさつを思い返してみると、もう美容外科に行く気がせず、痛みはなかったので、そのまま放っておくことにしました。
それが1998年のことでした。
それからさらに5年後の2003年、仕事中に激しい立ちくらみに襲われました。頭の中で何かが起きたように感じました。「左脳がぐるっと一回転した」――不思議な表現ですが、山下さんはその時、そう感じたそうです。
奇怪な症状
様々な症状が出始めました。
◆一つには呼吸がおかしくなりました。
これも奇妙な表現ですが「左の鼻の穴から吸った息が漏れている」感じ――。
人の自然な呼吸は、鼻から空気を吸い、吸った空気は当然、肺にたまり、肺は膨らみます。人は普段これを意識せずに行います。
しかし、山下さんは普通に両方の鼻で息をすると、肺は膨らみますがなぜか酸欠状態になっていきます。息が苦しくなり、身体が硬直してしまうのです。大きく息を吸っても同じです。両方の鼻の穴は通っており、どちらからも空気は吸えます。
それで山下さんはいまの自分の呼吸について色々試してみました――というより山下さんは生きていく上で絶対に必要な呼吸をなんとかしなければと、とにかく必死だったということなのですが。
気づいたことは、
①普通になにもせずに鼻から呼吸をすると苦しくなること。
②口から呼吸すると普通に呼吸できること。
③左の鼻の穴を閉じて「右の鼻の穴」からだけ息を吸うと呼吸が楽になる、普通に呼吸している感覚になること。
④右の鼻の穴を閉じて「左の鼻の穴」からだけ息を吸うと空気らしきものは入ってきて肺は膨らむのだが、「酸素が入ってこないように感じられる、身体が動かなくなる、意識が遠のく」こと。
⑤左の鼻の穴が優勢になっている。
では左の鼻の穴から入ってくるものは何なのか、空気ではないのか、そこに酸素が含まれない理由はなんなのか、そして左の鼻が優勢になるのはなぜなのか――そうした疑問は出てきましたが、現実的な対処の方が先です。山下さんは左鼻腔の奥に日常的に脱脂綿を詰めておくことにしました。
そしてちょっと身体を動かすだけで息が切れるようになりました。
◆味覚にも異常が出始めました。
何を食べても味がしないのです。苦いものが口の中に出てきます。口にするものすべてが本当にちょっと味がするのがわかる、という程度にまでなってしまいました。
◆睡眠が一変しました。
これもご本人の表現ですが「寝ても眠りが拡がっていかない」感じがする――これはどういう意味なのでしょうか。
話を聞いていて思ったのは、山下さんは御自身に起こったことを表現するのに、一生懸命正確に伝えようとするのですが、どれもその実感を伝えられないような気がするのか、くちごもります。そして「うまく表現できないんですが」といって、言葉を手探りします。
この「眠り」のことでも、山下さんが伝えようとしているのは、いわゆる「眠りの質」が良くない、とういうことではない、と私は話を聞いていて思えるのです。一般にいう「眠りの質」が良い、とは布団に入るとストンと眠りに入って、夜中は熟睡し、朝起きたときによく寝た、すっきりした、疲労感が残っていない、いわゆるノンレム睡眠を深くとること、というような意味あいのことかと思います。深い眠りがない、ということは浅い眠りである、ということかと思ってしまいます。
そうではなく、よくよく聞くと「眠りそのものが事件を契機に違ったものになった」ということのようです。それは言葉では表現できますが、では「違ったもの」とは何なのかというと、私は経験が無く、想像できないので解らない、ということです。考えてみれば、いままで自分は、眠りとはみんな一緒のもので、「眠りの科学」という一般論ではなく、「自分の眠り」を個別のものとして観察・分析して、表現したことなど、一度もなかったと、そのとき気づきました。
眠りのこともそうですが、私が山下さんの話を聞いていて思うことは、どうも自分が知っている・使っているどの表現も、山下さんの腑に落ちていないのでは、もどかしく感じているのでは、という印象でした。私も一緒に言葉を探すのですが、見つかりません。
そして「寝ても眠りが拡がっていかない」――この表現の本当の意味に私が気づいたのはもっとずっと後のことでした。
◆髪が薄くなり、グリースのような油が頭皮に浮かぶようになりました。
頭の皮が後ろに引っ張られるような感覚とともに、クリーム色の油のようなものが厚く浮いてくるようになりました。フケなどではなく、整髪料のグリースのようなねっとりしたものが頭皮全体にびっちりと出てくるそうです。髪もまだ28、29歳だというのに薄くなっていきました。そしてこんな状態では髪の毛はグジャグジャになり、手入れのしようもなくなるので、すぐに洗えるように剃って坊主頭にすることにしました。このことについては1992年頃に行った歯の矯正も関係しているかもしれない、とのこと。なにか状況はますます複雑になっているような気がしてきました。
(3)へつづく